英語のもやもや
ずれって言うんですかねぇ~。私の中にあるモヤモヤは。
昨日もちと英語には昔「二人称単数があった」と知ったばかりなのですが、この点は少しばかり伊語を囓っておいてよかった気がします。英語だけが「変」だったワケです(苦笑)。いろんな言語を中途半端に取ってくるから・・・。
伊語にはもちろん二人称単数がありますし、親しい人(親称)とそうでない人(敬称)を呼び分けています。敬称は初めて会う人や目上の人、王様ですよね。日本語だってお父さんやお母さんに「お前(あなたに相当)」とは言いませんし、上司や他社の社長が目の前にいる場合や、天皇陛下との謁見が叶う(笑)ときなど「あなた」とは言えませんよね。
あ、願ってもいないのに「叶う」って英語でも言うのかなぁ~まぁいいや。
以下は 英語の人称世界 より引用
そして、これが一番重要な変化だと思うのですが第二人称単数形が消滅してしまったという事実があります。現代英語では、単数、複数ともにyou-your-youという活用になりますが、十七世紀以前は複数形の場合には、主格yeや目的格youの区別がありました。しかし十七世紀以降、主格のyeは目的格youにだんだん取って代わられていき、十九世紀に消失しました。御存じのように、youは今日では単・複同形ですが、実は千百年以前には立派な単数形が存在しました。古英語からの継承形で、thou-thy-theeと活用しましたが、十七世紀になると急速に衰え、今日では廃れて、北部方言、詩語の他は、クウェーカー教徒の間で(主格としても使われ第三人称単数の動詞接尾辞をとるthee(Thee comes…)として)用いられるくらいです。ではなぜ第二人称単数形が消滅してしまったのか。それは次のような事情によるものと考えられます。十三世紀後半から、相手が一人であっても敬意を表すために複数形の第二人称代名詞を使うという習慣がフランス語の影響によって始まりました。これは「丁重な呼びかけ」「敬意の複数」「皇帝の複数形」として知られ、ローマ皇帝の時代にまでさかのぼる用法です。ye,youなどの複数形は目下から目上のものに向かって使われましたが、thou,theeなどの単数形は、目上から目下のものヘ、社会的地位が等しいか親しいもの同士の間、夫から妻、親から子ヘ、あるいは神への呼びかけとして用いられました。しかし、どちらの形を使うべきかという心理的な負担のために、あらゆる場合に無難な複数形を使うようになっていき、結局単数形が不要とされ消滅してしまったのです。面白いことに、出発点では同じであったドイツ語やフランス語の場合は、複数形Sie「あなた」-単数形du「きみ、おまえ」、複数形vous「あなた」-単数形tu「きみ、おまえ」のように英語と違って今日でも単。複の違いが保持されています。
「私が太字にした部分(原文にボールドはありません)」にギョッとしました。日本語でも言いにくい(発声しにくい)言葉がしやすい言葉で定着してしまうことは多々ありますし、最近では「ら抜き表現」などもあります。迷ったときには怪しい敬語もどきを乱発して敬語を使う努力をしている光線を発射しまくるケースも多々ですし。う・・・数百年後にはこの怪しげな敬語もどきが迷ったときの無難な敬語になってしまう可能性が・・・(涙)。
いえ、100年後は私なんて死んでますからそんなことは後世の言語学者に任せましょう。今は英語のモヤモヤです。
この長い論文を最後まで読んでみると、所々理解が辛いところがあるモノの、ずいぶんと私のモヤモヤが薄れていきました。余談ですが、英語は上の人を敬わない言語ではなく、歴史の中で「無難な選択」を行っただけだったんですね。その背景を知らない日本人が十把一絡げに「あなた・あなたがた」と学生・生徒に教えてしまったと。(伊語を囓っていなかったらもっとわからないことが多かったと思いますが。)
同時に三人称単数の「s」が昔の名残が残っているだけとわかりました。be動詞の、am, are, is,... の変化がそれの名残であると言われれば納得です。伊語だったら「essere」が、sono(I am), sei(You are), e’(He/She is), siamo(We are), siete(You are), sono(They are) と変化して、もちろん二人称は単数と複数ですよ(全て現在形)。 原型の essere っぽいところがどこにもないところが泣けるところですが・・・(笑)。
英語のラッキーはこの活用が限定されているってことでしょうか(ポジティブに)。人称と単複で過去形や進行形まで活用されてしまったら大混乱です。一応、伊語にも規則ってモノがありますが・・・英語も伊語もよく使う動詞ほど「不規則動詞」なんて呼ばれていますから、中学1年で習うには・・・。英語の不規則動詞も他言語から取ってきた名残なんでしょうかねぇ。
確かにこの内容を中学生に教えるのは大変かも知れないけど、英語の先生がそれについて何の疑問も持たずに英語の先生をしているとしたら・・・あはは~遠い目。
英語の先生と言えば、高校時代に強烈な英語の先生と出会ったのですが、これはこれ。中学時代の先生はごく普通の先生でしたが、印象に残るやりとりがありました。
私が初めて言葉のギャップに気付いたのは、フレディー・マーキュリー氏の I was born to love you という曲に出会ったときでした。ちょうど中学2年で受け身の授業を受けていたんですよ。だから授業後に英語科教諭を捕まえて、「I was born to love you」を日本語にすると「君を愛するため僕は生まれた」になるのは何故?って訊ねたんです。「生まれた」なら、受動態じゃなくてもイイじゃん!ですよ。その時の英語の先生はこれは少し困った顔をしてからイギリス人やアメリカ人の考え方によるモノなのと教えてくれました。具体的な答えじゃなかったけど、そういう文化(考え方)があると知った始まりです。学校英語のとても良い思い出のひとつです♪
後々、自分でくっつけたのですが、宗教的な神様の意図みたいなのがあって受け身なのかなぁ~って。命に関する考え方が、八百万の神々+仏陀の日本人とは違うのかなぁ~なんて漠然と。
